先年(文禄二・一五九三年)、秀吉が、朝鮮渡海の大本営である肥前名護屋城に在陣していたときのことだ。
六月二十八日、というから、盛夏のころである。暑くもあり、長陣で退屈でもある。名護屋在陣の将士は、ようやく士気がだれはじめていた。
秀吉は、そういう人情はいちはやく察する男である。
かといってそれをひきしめるために、むずかしい訓令などは、かれは出さない。
「なにか、遊びの趣向はないか」 と秀吉はそんなことに頭をつかった。
「わっと城内が割れかえるほど笑うような趣向が」
と、かれはお伽衆や、奥むきの女官などにきいた。
みな、ほどほどなことをいった。どの案をみても秀吉は、
「いかん、世に在ったことじゃ」
といった。すでに先例のあったような催しはやりたくない。
「奇抜な!」
といって人が手を打っておどりあがるような趣向をかれは望んでいる。
ついにかれは、思いついた。
仮装園遊会をすることであった。武将の一人々々に意外な変装をさせ、たがいに相手を笑いながら一日をすごそうというのである。
そこで、そのための奉行を臨時に置き、いっさいを準備させた。
これが、日本における仮装園遊会のはじめで、その着想が奇抜なだけではない。仮装して登場する人物も、日本史上もっともけんらんたるものであった。
徳川家康以下の戦国生き残りの英雄豪傑が、おもいおもいに仮装して出場するのである。