おもしろき こともなき世を おもしろく

  1. 個人
  2. 76 view

坂本乙女あて/慶応二(一八六六)年十二月四日

 
乙女さんに差し上げます。

前々から、申しあげていた妻のお龍は、望月亀弥太が討ち死にした時の難に遭った者で、また土佐から出て来た者が、この家で大変世話になっていましたが、この家の人も国家を憂いて結局家が滅びてしまいました。

年老いた母親、お龍、その妹二人、男一人食うや食わずで暮らしており、気の毒だったので、お龍と十二歳の妹、九つの男の子を預かって、十二歳の君枝と男の子太一郎とは、摂津の神戸海軍所の勝安房に頼みました。お龍の事は、伏見寺田屋のおかみさんのお登勢に頼みました。この人は学問のある女性で、中々の人物です。

今年正月二十三日夜、襲われた時も、このお龍がいたからこそ、龍馬の命は助かったのです。

その後京都薩摩藩邸に逃れた時、小松や西郷などにも言い、私の妻だと知らせました。

この事をお兄さんにもお伝え下さい。申し上げますと、

京都柳馬場三条下ル所 ここに住んでいましたが、国家の難とともに家が滅び、あともなくなってしまいました。
楢崎将作 死後五年となる
正月二十三日の事件のあとです。   その妻は存命
私の妻は将作の娘です。
今年二十六歳、父母のつけた
名前は龍、私がまた鞆と改めました。

京都の薩摩藩邸にいるあいだ、二月末ともなれば嵐山に遊びに来た人が、お見舞いに桜の花を持って来てくれました。中でも中路某と言う人のお母さんは面白い人です。和歌なども良くできます。この人も私の話を面白がり、妻のお龍を可愛がってくれ、遣いをよこしてくれます。

この人はかつて、中川宮の悪だくみに腹を立て刺し殺そうとした人です。もともと宮中に奉公していた人ですからそういうことには良く通じている人です。公卿たちでも知らぬ人はありません。

この後三日大阪に出、四日に蒸気船に乗り込み、長崎には九日に着き、十日に鹿児島へ行きました。この時は薩摩の京都留守居役・吉井幸輔も一緒で、船の中でいろいろ話していきましたが、温泉へ一緒に遊びに行きましょうということで、吉井に誘われ、また、二人連れで霧島山へ行く途中、日当山の温泉に泊まり、また、塩浸という温泉にも行きました。

ここは、もう大隈地区で、和気清麻呂が庵を作って修行したところで、蔭見の滝もあり、その瀑布の高さは五十間もあり、滝の途中はがけに触っていません。実にこの世の外かと思うほどのめずらしい所です。

ここで十日ほど泊まって遊び、谷川の流れで魚を釣り、ピストルで鳥を撃ったりして、大変面白く過ごしました。

その後はまた山深く入って霧島の温泉に行き、ここからまた山上に登り、天の逆鉾を見ようと、妻と二人ではるばる登りましたが、橘南谿の西遊記の記述ほどではないけれど、どうもひどい道で、女の足には難しいようでしたが、とうとう「馬の背越え」までよじ登り、ここで一休みして、またはるばると登り、ついに頂上に登って、あの天の逆鉾を見ました。その形は(図参照)

これは確かに天狗の面です。両方にその顔が作りつけてある。青銅製です。真正面から見たところです。

やれやれと腰をたたいて、はるばる登りましたが、絵のような思いもかけぬおかしな顔つきの天狗の面があり、二人で大笑いしました。ここに来れば、非常に高い山なので、目の届くかぎり見え渡り、素晴らしかったのですが、なにぶん四月のことでまだ寒く、風も吹くので、そろそろと下りました。

なるほど、霧島つつじが一面に咲いて、実に、化粧をしたようにきれいでした。その山の大体の形は(図参照)

○このサカホコは、少し動かしてみるとよく動きます。また、余りにも両方へ鼻が高く、お龍と二人で両方から鼻をおさえてヱイヤと引き抜いてみたら、わずか四五尺で、またまた元通りに納めました。あらがねで作ったものです。

○この穴は火山の跡です。直径は三町ばかりあり、すり鉢のようで、下を見ると恐ろしいようです。

○ここには、霧島つつじが非常にたくさん咲いています。

○イ~ロ この間は山坂、焼け石ばかり。男でも登りにくく、例えようもないくらい危ない路。焼け土はさらさらで、少し泣きそうになる。五丁も登れば、履物が切れます。

○ロ~ハ この間はあの「馬の背越え」です。なるほど、左右目が届かぬくらい下がかすんでいます。
あまり危なかしいので、お龍の手を引いてやりました。

○ハ~ニ この間は、大変楽なところで、滑っても落ちる心配ありません。

霧島山から下り、霧島の社にお参りしましたが、ここには大きな杉の木があり、お宮の建物も時代を感じさせ、非常に荘厳な雰囲気がありました。

そこで一泊し、そこから霧島の温泉に戻ると、吉井幸輔も待っていて、いっしょにそこを発ち、四月十二日鹿児島へ帰りました。

それから後、六月四日、桜島丸という蒸気船で長州への用事を頼まれ出港。この時、妻お龍は長崎へ月琴の稽古に行きたいと言ってこの船に乗りました。

そこで、長崎の知り合いにお龍を頼み、私は長州へ行ったところ、思いがけなく、別紙に書いたように戦の応援を頼まれ、ひと戦争したところ運よく勝利を収め、けがもせず無事でした。

その時は長州の殿様にもお目にかかり、いろいろお話を伺いました。ラシャの洋服生地などもくださり、それを頂いて薩摩へ帰り、海戦のことなどを申し上げ、再び長崎へ行ったのは、八月十五日でした。

世の中のことは月と雲、まったくどうなるやら見当もつきませんが、不思議なものです。家にいて、やれ味噌だ、薪だ、年の暮れには年貢米の受け取りだ、というより天下の世話は、実に大ざっぱなもので、命さえ捨てる気になれば、おもしろいものです。

これからまた春になれば妻を鹿児島に連れ帰り、自分は、京都で戦が始まると思うので、そちらの方へも、事によったら出かけてみようと思っています。

そうした中で安心なのは、西郷吉之助の奥さんも彼も、とても心の良い人なので、ここへ妻をお願いすれば、気づかいなくと考えます。

この西郷という人は七年も島流しに遭った人です。それというのも、取りつかれたように京都のことが気になり、先年初めてアメリカのペルリが江戸に来た時、薩摩藩の先代の殿様、島津斉彬候の内命で水戸へ行き、藤田虎之助の所にいましたが、その後斉彬候が亡くなられたため、藩の方針が変わり、朝廷を憂いていた者は殺されたり、島流しにされたり、西郷も島流しの上、牢屋に入れられました。

その頃、鹿児島へイギリスが来て戦争となり、それ以来藩の意見も変わって、西郷吉之助を必要とすることになり、引き戻されて再び政治に関係することになったのです。国のことも、この人がいなくては一日も動かぬような大事な仕事をしています。

人間というものは、短気を起こして死ぬようなことをしてはなりません。また、人を殺したりしてはいけない、と皆で話し合っています。

まだまだ申し上げたいことばかりですが、いくら書いてもきりがありません。まあちょっとしたことでも、こんなに長くなりますわ。

               かしこかしこ 龍 馬
極月四日夜認
乙 様

個人の最近記事

  1. タイで産まれた子の日本国籍がなくなった場合の対処方法、の実録。その4

  2. タイで産まれた子の日本国籍がなくなった場合の対処方法、の実録。その3

  3. タイで産まれた子の日本国籍がなくなった場合の対処方法、の実録。その2

  4. 今日のタイ語ー偶然

  5. 今日のタイ語ー守る

関連記事



おすすめ特集記事

  1. 旅ログ

    【日本一周22日目】北海道
  2. Portfolio

    【第24回】金は売り時?買い時?
  3. 旅ログ

    【日本一周28日目】茨城→東京、そしてエンディング
  4. 旅ログ

    【ハネムーンまとめ】ヨーロッパ周遊1ヶ月で14ヶ国25都市を…

アーカイブ

アーカイブ

月間ランキング

  1. 登録されている記事はございません。

タイ情報☆ブログランキング

PAGE TOP