粋華志義

二十一回猛士、吉田松陰寅次郎

吉田松陰寅次郎。


吉田松陰は5才にその父(養父)が亡くなったことにより、
その家の当主になりました。

また、その家は代々山鹿流の兵学を教える家のために、
長州という国から命令され5才~18才までの間英才教育をさせられます。

その中でも玉木文之進先生の教育はすごい。

ある夏の日、勉強中のこと。
汗で顔がびっしょりになりハエがブンブンと顔のまわりに飛び回り、
それが玉木先生の目に止まりました。
ついに松陰少年は顔をかいてしまいます。

「それでも侍の子かっ!」

玉木先生、殴る、且つ殴る
起き上がって来て、さらに殴る
ついにガケの下に突き落とし、松陰少年は横腹を打って気絶しました。

玉木先生の教育とは、
侍とは何たるかを力まかせに叩き込むものだったらしく、
侍の定義は公のためにつくすものであるという以外にない、という事でした。

「かゆみは私。かくことは私の満足。
 それをゆるせば
 長じて人の世に出たとき私利私欲をはかる人間になる。
 だからなぐるのだ」


世に響く“松下村塾”はこの玉木文之進先生が創始者で、
その後25歳になった吉田松陰が再興したカタチとなったのです。

村塾と言ってもそれは吉田松陰の家であり、
今でも山口県萩市に現存されています。

ここにかつての志士、
高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊介(博文)等が集まり、
松陰の思想に何かしら影響を受け、時代を回天させてゆくのです。

ゆかねば、へ・・・