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時は幕末、ペリーが及ぼしたもうひとつの影響

ペリーが日本国に来たことにより、日本史は乱世に入り、
やがて回天の道をゆくのですが、
彼が来た影響の内のひとつに、こんな記事を見つけました↓

ひとりの男の夢が結実した海
さて、この国内初といわれる海水浴場の誕生には、実は嘉永6年(1853年)にやってきたペリー提督率いる黒船艦隊が関係している。黒船の来航に驚いた江戸幕府がすぐさま友好国オランダに蒸気船を発注したことをきっかけに、オランダから長崎へ海軍伝習隊がやってきた。そのメンバーの中に医師がいることを知った松本順は、長崎へ足を運び、その医師から西洋の最新医学を学んだ。

そのときに読んだ医学本がきっかけで、松本は健康を増進し、体力を向上させるという海水浴の効能を知った。ぜひ自分の国でも海水浴による健康づくりを行ってみたい……そう思った松本は、軍医総監を退官した明治12年(1879年)から、海水浴に適した海辺を探して全国を旅した。そして5年後、ようやく出合ったのが、大磯の照ヶ崎だった。

地元の人々に海水浴の効能を説明し、説得し、明治18年(1885年)に海水浴場を開いた。松本の考える理想的な海水浴場とは、海水や空気がきれいなだけではなく、波が大きいことも重要な条件だったという。荒くて力強い波が続々と体に当たるような海ほど、健康増進効果がアップする、という考え方なのだろう。

ちなみに当時は、あくまでも海水”浴”であり、泳いだり水遊びをしたりするのではなく、体力や体調に合わせて1日に数回、各10~20分ほど海中で塩水に浸かるのが目的だった。明治時代の海水浴風景を描いた絵を見ると、海中に何本も棒が立てられ、海水浴客たちはその棒にしがみついている。楽しそうな表情をしている人は見当たらず、どちらかといえば苦行か修行のようでもある。

そんな海水浴の人気に火がついたのは、2年後の明治20年(1887年)。大磯海水浴場に洋風の大型旅館「梼龍館」が開業すると、松本は知り合いの歌舞伎役者や新聞記者など約300人を招待した。また大磯海水浴場の良さについて説いた海水浴のハウツー本を出版し、宣伝を行った。同じ年に延伸開業した東海道線の旧横浜駅~国府津駅間に大磯駅が設けられたのも、松本の尽力があったからこそ、と言われている。そのおかげで、海水浴客の数は爆発的に増加し、大磯の名は全国に知れ渡った。

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