粋華志義

切腹のはじまり

「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」

 

 

切腹について

戦国時代以前の武士道において、切腹の作法は確立していなかった。切腹の例はあったが、単なる自殺の手段のひとつであった。無念のあまり行う「無念腹」のように、内蔵を引きずり出すなど、その凄惨ぶりを披露する場合もあった。

また、戦において捕らえられた高い身分の武士も、大抵は首を刎ねるのが普通であり、切腹させるといった習慣は無かった。場合によっては磔にする事もあった。

切腹の作法が変化する転機となったのは、この清水宗治の切腹からであった。水上に舟を漕ぎ出し、そして切腹の前にひとさし舞ったのち、潔く腹を切り、介錯人に首を刎ねられた清水宗治の作法は見事であるとして、それを実際に見た武士達の賞賛を受けた。秀吉は信長の敵討ちのために一刻も早く京へと戻りたいところであったが、「名将・清水宗治の最期を見届けるまでは」と陣から一歩も動かなかったといわれている。また、後に小早川隆景に会った秀吉は「宗治は武士の鑑であった」と絶賛したという。

 これ以降、武士にとって切腹は名誉ある死という認識が広まり、また刑罰としても切腹を命じる習慣が広まった。後に秀吉は、豊臣秀次、千利休らを処罰するにあたって、切腹を命じている。

以上はWikiより抜粋、以下は実際のその現場。

「まさか、あなたは」
と言いかけるのを末近はおさえて、申されるな、自分も腹を切るつもりだ、といった。

末近がいうのに、自分は軍監を命ぜられてこの城に入ったときからどのみち死を覚悟していた。なぜなら、もし清水どのが羽柴方に走ったとすれば自分はすかさず貴殿と刺し違えて死なねばならぬ、また貴殿が城を枕に討死なさるとすれば自分もまたその横で死なねばならぬ、ところがいま意外にもこのような仕儀になった、もともと貴殿と死ぬべかりし自分がひとり生きていることはできぬ、ということなのである。

宗治はしばらく考えていたが、やがて、

「では、賑やかに参ろう」

と了承した。