粋華志義

先例がないからこそ

 千代は明るくうなずいた。

「よいではありませぬか」

「そなたは、いつもそういうのんきな顔をする」

播州に居住していては、いざ合戦のときにとても間にあわない。こんどの合戦は、早晩、北国の柴田勝家との間におこなわれることになるであろう。予定戦場は北近江から北国にかけての街道ぞいと思われる。それが秀吉にとって第二の天下分け目の戦いになるわけで、播州に居てはその合戦に間にあわない。

(そのとおりなのだ)

と千代も思うのである。たしかに伊右衛門には、軽微な不運がつづいていた。しかし、これを不運と思うのは愚者である、と千代は考えている。運、不運は、「事」の表裏にすぎない。裏目が出ても、すぐいいほうに翻転できる手さえ講ずれば、なんでもないことだ。

「知行地にはたれぞ代官をやり、お屋敷は京都に頂くようおねがいすればよいではありませぬか」

あっ、と伊右衛門は驚いた。

なるほど、妙案である。秀吉の当分の策源地は京都であろう。そこに屋敷をもつというのは、つねに秀吉の指令の下で働ける態勢をとっていることだ。

この千代の妙案は、ちょっと現実的でないのは、信長時代に先例がないのである。信長はその晩年、京都に居ることが多かったが、侍屋敷まで作ろうとはしなかった。

先例がないからこそ、お願いすればおもしろうございましょう」

と千代はいった。