粋華志義

【第24回】金は売り時?買い時?

時は幕末、 当時日本は紙幣ではなく周知の通り金、銀が用いられていました。

金の小判一枚(一両)は、一分銀4枚で交換できます(一両=四分)。 この“一分銀”というのがくせ者で、 要は貴金属という価値的(銀の重さ)に言うと 一分の価値もない名目貨幣であることでした。 これは江戸後期、 幕府財政難の対応策だったと言われています。

そんな中、 アメリカという名のジャイアンが黒船を率いてやってきた・・・

つまるところ、メキシコ銀貨を持ってきて 「この銀貨を、同じ重さの日本の銀(一分銀)と交換しろ!」 と大砲を向けて言ってきたのです。 幕府は黒船と大砲が怖かったが、 とにかく一分銀は名目貨幣だから嫌だと主張するも、 ジャイアンは欲しいものは何でも手にいれるのがやり方のようで聞きませんでした。

「国際的には通用しない」の一点ばりだったのです。 そう、大砲を向けて。

そこで、 ジャイアンは3千円分の価値ある一分銀を わずか千円分の価値しかないメキシコ銀貨で両替させ、 手に入れた一分銀を金で作られた小判と交換し、 それを海外に持ち帰りました。 その小判は海外では貴金属の“金(きん)”として売買され、 当然、その価値である3千円をジャイアンは手にする。

ジャイアンにとって、これほど簡単なことはありません。 1億日本に持っていけば、自国に帰った時には3億になるのです。

“ジャイアン”はアメリカだけにとどまらず、このシステムに開国・貿易を約束された列強が群がってきました。

この間、
幕府も抵抗はしてみました。

安政二朱銀という、国際相場に合わせた平等なるフェアな貨幣を発行したのです。しかし、目の前の欲に飢えたハイエナ達は

「条約違反だ!」

などと言って聞きませんでした。「国際的には通用しない」の一点ばりだったのです。そうです、ここでも大砲を向けて。

こうして大量の金(きん)が、日本より海外へ流出されました。

一年に5~6回はこの“ボッタくり両替”の為に往復できたといいます。ジャイアン、いや、かのハリスもその日記に随分儲けたと記録しています。アメリカという大国の特命全権大使が言う「随分」とはどれほどの額なのでしょう。

徳川埋蔵金と呼ばれる存在は、この時に海外に流れていったのではないか、と個人的には思っています。というのも、この金の大流出、どの記事を見ても「大量の金が海外に流出した」と記載があるのですが、数字を書いているところはどこにもないのです。