はい。このお話はこれだけではない。そもそもこの場合、怒ったところでどうなるかを考えてみよう。
- 恋人への印象はどうか?
- クリーニング代を払ってくれるようになるのか。そうであれば、怒ることによって少しでも高く払ってくれるのか?高く払ってもらえたとして、虚しくはないか。
- 怒るよりも、鏡の法則を使う余裕はなかったのか?
- 周りで同じく食事を楽しんでいる人への影響はどうか?雰囲気を壊していないか?
- 次回お店に来ることがあった場合、お店の対応はどうか?
- もし自分がウェイターだったら、怒られてどう思うか?怒るどころか、そのお客が逆に紳士の振る舞いだとしたらどう思うか?
- 怒ることによって自分の気をせいせいしたいのか?
- 怒ることによって何を得られるのか。そして、何を失うのか。
何点か挙げてみたがどうだろう。その状況、状況で色々な事が想定出来るが、筆者がここで言いたいのは、良さそうではないと思う一番の理由は、それ相応の人間を形成させてしまうことである。
この状況で感情の向くまま怒鳴った人は、おそらく他の場面でも同じように感情のままの言動をすることだろう。逆に余裕を持っていられた人は大抵、同じように余裕を持っていられるはずだ。あるいは、そうしていく対応がその人の人間を形成している。
つまり、今挙げたレストランの例は一例に過ぎず、毎日それこそ未知数とも言える自分の周りに起こる事柄を知らず知らずの内に、今の例と同じように処理をしているのだ。もしかしたら今回怒ったところでクリーニング代がより高くもらえるのかも知れないが、それは結局目先の事で、人生という長い目で考えると、必ずと言っていいほど損をしていると言えるだろう。→と考える。
人生とは、その時その時の事柄を点とした時に、その天文学的数字に及ぶ点を全て繋げた“線”であるとも言える。つまり、その点である事柄をどう処理するかによって人生という線が出来ていくわけである。→と考える。