おもしろき こともなき世を おもしろく

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ワタクシが高杉晋作を崇拝する理由、それは極上の粋。

「おもしろき こともなき世を おもしろく」

奇想天外、神出鬼没、国士無双な男、高杉晋作の時世の句でもあるこの有名な言葉。晋作はここまで書いて力尽き、筆を落とすのですが、枕元にいた野村望東尼という人が、上の句で終わらせてはならない、と即興で「すみなすものは 心なりけり」と付け出し、晋作の頭の上にかかげます。晋作はそれを見て、「・・・おもしろいのう」と言って永い眠りにつくわけですが、この下の句が普通にキレイにまとまりすぎて晋作らしくない、という声も高いわけです。

さて、この高杉晋作。どうゆう人かと言うと、まず奇兵隊を作ったことで知られます。確かにこの奇兵隊は700年の歴史を覆す当時では斬新なシステムで、やがて日本陸軍の元になり、紀元前660年から始まる日本史に深くその名を刻みます。しかし、それだけではない。正に神がこの時代の混乱に同情し、天から落としたが如くの存在であります。

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや」とは、初代内閣総理大臣、伊藤博文曰く。

晋作ははじめ、単純な攘夷思想でありました。これは、当時の日本人の一般的な思想であります。攘夷とは、「夷狄(外国人)を攘ち払え」という、現代では不気味な考えでもありますが、300年鎖国を行ってきた日本人としてはやはり、普通な考えでありました。それも、晋作が上海に行ってから変わることになります。もっと言うと、これにより、日本が夜明けに向け大きく変わっていきます。

ところで日本という国は言うまでもなく島国であり、その民族意識は当然強い。こんな日本人が海外の文化の違いを目の当たりにすれば、通常答えは二つである。その新しい文化に興味を持つか、それとも忌み嫌うか。当時の海外を知らない一般的な考えは先にも申した通り後者になりますが、面白いことにこの時期、海外に渡った人間(ほとんど幕府)はことごとく開国派になっていきます。

では晋作はどうであったか。彼も上海に行っており、その時期は実にアヘン戦争の直後。そこには白人の英国人に、奴隷の如く扱われている自分と同じアジア人、シナ人の姿でありました。彼はこう思ったと言われます。

西洋人の技術が、まず凄い。

日本刀では西洋の産業革命にはかなわない。
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シナ人(中国人)は何故、英国人にやられっぱなしになっているのか。
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日本もこのままでは、上海の二の舞になってしまう。
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日本を植民地から救うには、今の日本のシステム(幕府)ではダメだ。
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一度、日本のシステム(幕府)を滅茶苦茶にしてしまおう。
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ど~せやるからには、 異国と戦争を起こして一度、日本を焼け野原にしてしまおう。
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亜米利加の独立戦争の如く、強国となるためには一度焼け野原となり、どん底まで落ちたからこそ生まれる結束力、そのエネルギーこそ、 列強に立ち向かえる力だ。
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日本に帰ったら、幕府が困るような問題をいっぱいやってやる。

簡単に言うとこんな流れですな。晋作と同じく上海に行った賢人達は西洋のその技術に魅せられ、開国派となるわけですが、晋作に関しては西洋の技術を心から認めながらもあくまでも攘夷、こういったわけです。

日本に帰った晋作は、まず品川の御殿山に当時完成されつつあった英国公使館に火をつけ焼き討ちします。

次に、将軍暗殺計画、でもこれは失敗に終わります。そして次に、師匠である吉田松陰の、粗末に生き埋めにされた死体を掘り起こし、現在の東京・世田谷にある、後に松陰神社となる場所に改葬します。これも簡単に聞こえますが、吉田松陰とは、当時の国禁を犯した国レベルの大罪人。それを白昼堂堂と、それも、世田谷に行く途中の御成橋を渡ってしまいます。御成橋とは、歴代の将軍が専用で通る橋。勿論、将軍以外は通れない橋ではありますが、晋作は警備のものに、大喝して渡ってしまいます。

これらだけでも、死罪同然ですが幕府は当時の時代背景から弱腰。晋作は国元から呼び出される程度。そして、その江戸から長州への帰途でもやらかします。場所は天下の鹸・箱根の関所。

当時幕府はここをもって関東の守りとし、西から来る敵を想定し、堅固たる関所を設けたわけですが。。。

「ここは天下の大道ぞ、幕法こそ私法ぞ、私法をかまえて人の往来を制する無法があってよいか」

と、ついに関所破りをします。江戸三百年のあいだ白昼公然と関所をやぶったのは、この男だけであります。

続いて京都では。ちょうど晋作が京都に到着した時、将軍が天皇の行列をお供する時でありました。ここで晋作が起こした行動は、、、司馬遼太郎の文章を拝借します。

―――幕府の作法で、将軍の顔というのは大名でも見ることができない。江戸城での拝謁のときは上段の御簾のなかに坐し、御簾があがっても諸大名は平伏したままで顔をあげてはならないことになっている。たとえ上目でも将軍を見ることは非常な非礼とされているため、江戸の市民でも将軍の顔をおがむことはできない。

が、この異例の行幸の異例さの第一は、将軍が馬上で全身を衆目の前に曝してしていることであった。

(こんな若者だったのか)

と、晋作は近づいてくる徳川家茂の騎馬姿をながめて意外な思いがした。存外、可愛げではないか。 ひとびとはみな土下座し平伏している。が、晋作だけは顔をあげていた。

「いよう。―――」

と、この男は、花道の役者に大向うから声をかけるように叫んだ。

「―――征夷大将軍」

といったとき、さすがに連れの山県狂介らも顔色をうしなった。家康以来、天下のぬしに対してこれほどの無礼の挙動をとった男もない。そういう事件も、徳川三百年間、一件もなかった。もしあったとすれば、ただの刑では済まず、鋸挽きの刑にでも処せられたであろう。

ところが幕府にこまったことに、これは将軍が主役の行列ではなく、将軍以外の権威である天子の行幸であった。天子に対する無礼ならば将軍以下の供奉の者が家来に命じて取りおさえさせるはずであったが、将軍すら天子の供である以上、彼自身に対する無礼は、それを咎める機能がこの行列にはない。将軍のそばには五千石、三千石といった高禄の旗本が徒歩でつき従っており、また番頭以下の親衛隊士もいる。しかし勝手にとびだして天子の行幸をみだすわけにはいかなかった。晋作は、戦略眼に富んだ男だけに、そのことはよく知っていた。

このとき、将軍の従士たちはよほどくやしかったらしく、このあと江戸までこのことを手紙で書き送った者が多い。
以上、“世に棲む日日”より抜粋。

ところで、晋作の頭はザンギリ頭で世間には知られています。当時、武士でこの頭はおそらく全国三百諸侯を探しても晋作だけではありますまいか。一度、出家しているからです。名を東行と改めて(ちなみに晋作の息子の名前は東一)。当時坊さんになるということは人間をやめると同様。出家して10年は浮世から身を引こうとした晋作でありますが、数ヶ月で長州の殿様から呼び出されます。

それもそのはず、長州という独立国の非常事態。幕府から攻められ、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの17隻にもなる四カ国艦隊に攻められる時。日本からも朝敵とされ、列強からも攻められ、正に地球から孤立した状態でありました。

晋作は呼び出され、こう殿様に進言します。

「もはや非常の事態。非常のことをやらねばなりませぬ」

こうして生まれたのが奇兵隊。

武士が始まって以来700年、濃密な階級制度が出来てからも250年、晋作はそのシステムを覆します。奇兵隊の“奇”とは、武士の隊からなる“正”規兵に対する意、つまり階級・出身に捉われず、“志”を持つものだけを集めるのですな。

この後、晋作は四カ国艦隊との終戦の交渉に行きます。色々お話ししたいのですが、この時のポイントは、英仏米蘭の連合軍が彦島を拝借したい、と言うのをきっぱりと断ったことですかな。これはテストに出ますぞ。晋作は上海を見てますからね。これだけは絶対に拒否しなければ、と考えます。そこで彼は古事記・日本書記の講義を長々と始め、高天原より始まり、天照皇大神がどうのこうのと永遠に続け、ついに相手に諦めさせてしまうのです。

さて、その後長州は幕府から第二次長州征伐を受け、10万くらいの幕府軍が長州に攻めて来るわけですが、なんと、これに立ち向かう。はじめはほんと一人でありました。自分で作った奇兵隊も動かず、それでも、「自分の国(長州)を憂うものは功山寺に集まれ」と、声をかけ、その期限を12月15日とします(→新暦1864年1月12日)。

誰が考えても絶対に勝てない戦であります。だって、敵10万ですからね。よく戦国の戦で敵の何分の一しかないのに勝ったとか何とかありますが、10万倍ですよ。100人集まったところで敵は千倍。さすが晋作、生涯困ったことがない。

そして運命の12月15日。ちなみに「その時歴史が動いた」ではこの日に焦点を合わせて放送されてましたな。

この日、一人の若者が動きます。

後に初代内閣総理大臣となる伊藤俊介(博文)。この男が30人を引き連れ一人が30人となり、また諸国から脱藩志士が集まりついには80人となりました、この日。でも80人。 晋作はこの時言うのです。

「今から長州男児の肝っ玉をお見せしよう」

これが12月15日の功山寺挙兵。

この後、晋作の存在が奇兵隊士200人を動かし、それが農民に広がり、その規模は3000人にも膨れ上がります。まぁ色々あるわけですが結局、このクーデターは成功します。成功したからには、当然晋作は第一人者なのでその新政権のトップとなるのが普通っぽいですが、

「艱難を共にすべく、富貴を共にすべからず」

としてそのポストを退きます。

そしてその後の幕長戦争でも、扇子一本で幕府艦隊に奇襲をして追っ払い、小倉城も彼の作戦で落とし、勝ってしまう。そして、その役目が終わったかのように病に倒れ、この文の冒頭に結びつくわけです。

晋作が何をしたか、とてもこのくらいの文章では伝えられないですが、彼の魅力を感じる一句がこれ、

「三千世界の烏を殺し ぬしと朝寝がしてみたい」

晋作は晩年、よく言っていたことがあるといいます。

「自分は生涯、困ったということがない」

そして高杉晋作という男、または彼の人生を語るにはこの言葉でありましょう。

「おもしろき こともなき世を おもしろく・・・」 

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